今朝クルマの中でipodから流れて来た曲はくるりの『街』。「♪こっの〜街は僕のもの〜♪」というフレーズから始まる印象的な曲だ。この曲を聴くたびに自分の中の喪った部分を刺激されるような、苦いような気持ちを味わってた。なんていうのかな、「僕は何にでもなれる」とか「可能性は無限に広がっている」という今はない全能感・万能感の残像を見るような気持ち*1。でも、今朝彼女と話していてはっと思うところがあったのでメモメモ。
これまたアナロジーなんだけど、生物には幹細胞という全能性を持った細胞がある。ようはこの先どんな細胞にでもなる力を持った未分化の細胞。この細胞からスタートして、発生・成長過程でどんどん分化していって、その結果筋細胞だったり神経細胞だったり、表皮細胞だったりとそれぞれが全く違う特性を持つ細胞に変わっていく訳だ。そうして、全く違う個性を持った細胞が集団として一つの生命体を支えている。逆に言えば、将来何にでもなれるポテンシャルを秘めた万能細胞って、それ単独では個体を維持するための役目は果たせない。
これって、中学生・高校生ぐらいの時に自分が持っていた全能感・万能感とか、どこぞの高校とかが生徒に向かって言ってたりする「可能性は無限大」というのが何の役にも立たないのと似ている。その時点で持っているのはあくまで何にでもなれる「可能性」であって、「何でも出来る実際の能力」ではない。実際に何かを出来るようになるためには、我々凡人は取捨選択を重ねていくしかないのが普通。他への可能性を狭めると同時に、何か今までできなかった事を実際にやる能力を得ていくって感じだろうか*2
と考えると、そういう見せかけの全能感を喪っていくというのは健全な成長過程なのかもしれない。「あの頃はあれも出来た(はず)、これも出来た(はず)」というありもしなかった幻想を追っかけて後ろ向きな考えにとらわれるのではなく、自分ができるようになった人と違う強みをきっちり認識してそこを強めていかなきゃいけないな、と思う。
もう一度アナロジーに戻ると、僕は目なり耳なり脳細胞なり、なんでもいいから「俺はこれだ」という機能を持つ立派な細胞になれているだろうか?どうせもう万能細胞には戻れないんだ。下手に隣の芝生の青さをうらやむより、自分のEdgeを磨いていきたいもんだ。
- アーティスト: くるり,岸田繁,根岸孝旨
- 出版社/メーカー: ビクターエンタテインメント
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