柿の種中毒治療日記

Kobe→Manila→Guangzhou & Hong Kong→Seoul→Yokohama

イントラムロス-フォート・サンチャゴ

フィリピンはメトロマニラ・マニラ市にあるイントラムロスに行ってきた。こちらに来るまで知らなかったんだけど、一般的に言う『マニラ』はメトロマニラ(マニラ首都圏)の事を指す。つまりメトロマニラとマニラ市の関係は東京都と千代田区みたいなもの。だから、(メトロ)マニラに滞在中でありながらマニラに行く、なんてこんがらがりそうなことが起こる。イントラムロスへはマカティからタクシーで30分弱。今日のタクシーはギアボックスがおかしいのか変速のたびにギアがぎしぎし鳴ったり、交差点で止まったあとローギアに入らずエンストしたりなかなか最初から盛り上げてくれる。ドアを開ける棒まで折れているのでてこの原理が使えずドアを上げるのも一苦労。まあそれはともかく100ペソちょっとでつくんだから安いものだよね。
今日の目的地のイントラムロスはマニラの中でもスペインの情緒を残す古い街。フィリピンは1521年にマゼランが上陸してから長いことスペインの植民地だった。スペイン人たちは入植したマニラにスペイン風の城塞都市を作り上げた、これがイントラムロス。
今回は城壁を潜り抜け、最奥部にあるサンチャゴ要塞からスタート。入場料40ペソを支払って中に入ると緑の広がる美しい公園のようになっている。早速左に折れてトンネルをくぐるとマニラでもっとも歴史のあるゴルフコース、クラブイントラムロス。とても小さいコースだけど、ちゃんとキャディさんも待機しています。そしてサン・フランシスコ・ザビエルにちなんだ小さな聖堂。むかしは砲台の火薬庫だったものが聖堂に改装されたよう。山口市には彼が教会をもって布教をしたことにちなんでサビエル記念聖堂があるけれど、日本に来る前にはマニラにいたんだろうね。後から大聖堂にも行ったんだけど、キリスト教の力たるや恐るべし。遠く故国を離れてこんな南の島にまでやってきて、本国並みの石造りの聖堂を立てて布教に励み、さらにここを足場に日本への布教を目指したんだなあと思うと感慨深いものがある。さてこの聖堂の脇を上って城砦の隅のところに行くと砲門が。今はクラブ・イントラムロスでゴルフに興じるかたがたにむけられていますが、昔はこの城砦の外と中で世界は違ったんだろうね。

さらに要塞内を奥へ進むと見事な濠に橋がかけられており、石造りの門が。この門をくぐると白い壁が明るい空に映えるリサール記念館がある。ホセ・リサールという人はフィリピン建国の英雄。19世紀の末にスペインからの独立を求める運動を行った活動家で、フィリピン革命の際に煽動家としてわずか35歳で処刑されたのだそうだ。この記念館の中には彼が残した衣服や本などのほかに、彼が死の間際に残した詩が刻まれている。日本語訳の銅板も献呈されているのだけれど、読んでいるだけで胸が熱くなってくる。明治維新にしてもそうだけれども、30代そこらの人たちが国の行く末を真剣に憂いて命をかけて活動していたんだなあ。この城砦内にはホセ・リサールが最後銃殺されるまで歩いた道のりに足型のプレートがしかれている。彼はここを歩いている間何を思っていたんだろう。

この要塞にはスペインからの独立とはまた別の、暗い暗い過去がある。リサールはスペインに対して戦った男だけれども、その後フィリピンは日本にも支配されている。それは第二次世界大戦中のこと。もともとは倉庫として設計されたエリアを水辺に面しているために物が湿気るという理由で半地下の牢獄として使ったという場所がある。すぐそばには川が流れているから、水位があがれば水が入ってくる。大戦末期に日本軍はここに600人にも上るフィリピン人を入れ、虐殺したのだという。その慰霊の十字架が静かに立っている。
マニラは戦前から百万人の人口を抱え、アジアでも有数の豊かな街だったらしい。それが大戦末期の日本と米軍の市街戦にまきこまれ、日本軍1万7千人、米軍1千人をはるかに上回る10万人もの一般人が命を落としたんだって。これはすごい数字だ。自国の被害は終戦記念日原爆記念日を通じて耳にする機会があるけれども、この南の島でそんなことが起こっていたのか。この破壊が今のフィリピンの凋落っぷりの遠因になっているのかもしれない。
フィリピンの人たちはにこやかで、ふだん敵意を感じることとかはほとんどないのだけれども、半世紀前にここでそういう残虐なことをしたということは消しようのない事実だ。ぼくは政治的なことには興味はない人間だけど、修正してはいけない過去・残し続けることで同じ過ちを繰り返さないようにするべき過去もあるのではないかと一人感じた。

この後マニラ大聖堂とカーサ・マニラ、サン・アグスチン教会に行ったのだけどそれはまたの機会に。