柿の種中毒治療日記

Kobe→Manila→Guangzhou & Hong Kong→Seoul→Yokohama

活字中毒

狂ったように本を読んでいたことがある。子供のころから活字の虫だった。学校で昼休みと放課後に一冊の本を読み終え、もう一冊を借りて帰って家で読んでいた。学校帰りには本を読みながら歩いて何度も横断歩道で運転手に怒鳴られたし、家に帰っても本を取り上げられるまで読み続け、本を取り上げられた後は食卓に座って目に入る活字を追い続けていた。中・高と学校帰りは本屋にとっては迷惑千万なことに2時間立ち読みし、大学に入ってからもお金が入れば本を買った。社会人になって仕事の虫になった。朝から夜までせっせせっせと細部にこだわり長時間働いてきた。その合間にもずっと本は読んでいたけれど、細切れの時間を有効活用できる短編小説が多くなって、これはという大作にはなかなか手が出ずじまい。大作も途中で置いたままになることが多くなってきた。
今月頭にフィリピンに来て以来、夜と休日がもう暇で暇でたまらない。仕事量がそこまで減っているわけではないのになぜなのか。実はテレビだ。こちらでは日本語の放送はNHKワールドしか入らない。英語のニュースやNational Geographicとかもみているんだけど、そこまでこれを見なきゃというものがないので結局テレビを消す。するとあら不思議、時間ができた。自分がどれだけテレビのある生活に慣れきっていたのかが分かる。民放が映らなくなってテレビにさぞかし恋焦がれるするだろうと思いきや、この番組が見たい!と強く思うような番組はじつは「のどじまん」と「篤姫」と「サラリーマンネオ」とNHKのドキュメンタリーぐらい*1。テレビにどれだけ時間を吸い取られてきたのかと思うとぞっとする。
テレビがなく、本が手元にない。じゃあ今どうしてるのか。ネット中毒だ。ネットは活字の海。クリックすれば新しい文字列がそこにある。でもふと疑問に思う。ネットの世界には手軽で幅広い情報や主義主張、ライフ・ハックがあふれている。でもこれは本当に自分の血肉になっているのか。なってないなあ。もちろん、読むに値する文章もあふれているけれど、でもたいがいは一過性の「情報」でしかない。それを元に思索もしなければ演習しようとも思わない。たとえばネット上で繰り広げられる「生産性」や「グローバリズム」に対する議論を見ているだけでは自分の理解はやっぱり深まらないや。仕事を通じて実感の中で得てきた生産性・グローバリズムに対する僕自身の意見はあっても、それはやっぱり体験に基づいた狭いエリアのものでしかない。
その点優れた本は体系的に学べるし網羅性も十分。ビジネス書に限らず小説だってやっぱり名著は名著といわれるだけある。多くの読者の目にさらされて選別されているだけあってすごく質が高い。勝間さんが書いていたけれど、本というのは筆者の研究・思索の集大成なわけだ。読めば得られるものを読まないなんてもったいない。マニラ赴任中の数年間はチャンスだと心得たい。今まで読まなかった本を一気に読もう。もちろんネットを通じて得られる雑多で生きた情報や議論から知見を得られることもあるけれど、ネット依存症といえるまで依存している今の状況は健全でないし、十年一日のごとく繰り広げられる議論を見ているだけでは自分自身には何のプラスもない。
こちらでは日本語の本はなかなか手に入らない。思い切ってアマゾンで気になっていた本を一気にピックアップ。ビジネス書、海外文学、日本文学、歴史、フィリピン・アジア文化、詩集、経済学、数学の本などなど。クリックしたりもしたり124冊。3年だと考えれば一年40冊程度。いけるかな。

おお、そういう意味ではiPhone買っちゃあやりたいことと逆行するな。

*1:すべてNHKだ。民放は見ない、という人のことを堅物だと思ってたけど、実際見る価値のある番組を作ってるのはNHKくらいなのかね