柿の種中毒治療日記

Kobe→Manila→Guangzhou & Hong Kong→Seoul

光布村客家圍龍屋に行ってきた


中国には客家(ハッカ、クァジャ)という集団がいる。彼らは漢民族でありながら客家語という独特の言葉を話し、独自の文化を守っている。ぼくの元部下の一人も福建省出身の客家なのだけれども、彼は中学校に上がった時に周りの友人が全く別の言葉を話していて吃驚したそうだ。それ以外にも、ぼくのチームの客家ではない人々が驚くような風習が沢山ある。客家とはなにものか。Wikipediaによると

原則漢民族であり、そのルーツを辿ると古代中国(周から春秋戦国時代)の中原や中国東北部の王族の末裔であることが多い。漢民族の中でも中原発祥の中華文化を守ってきた正統な漢民族である。歴史上、戦乱から逃れるため中原から南へと移動、定住を繰り返していった。移住先では原住民から見て“よそ者”であるため、客家と呼ばれ、原住民との軋轢も多かった。
(中略)
ほとんどの家に古代からの族譜があり、祖先信仰が強く、風習も頑なに守ってきたため、周囲から隔絶されて発達した客家語には古代の文語がうずもれるように残っている部分があるといわれている。


彼らは国と故郷を追われたExilesというわけだ*1。そんな客家は独特の建築様式を持つでも知られている。どこへ行ってもよそ者であった彼らは辺鄙なところに暮らさざるを得なかったため、外敵から身を守るために集団で暮らす知恵を身につけた。それが土楼。福建省永定には福建土楼群というとても美しい円形の土楼が今も残り、世界遺産にも登録されている。ただ永定は遠い。まずアモイへと飛行機で行き、そこから車で3時間半の道のりだと言うからちょっと思い立って行くわけにはいかない。

地球の歩き方を眺めていたら、広州の隣り増城市には1680年建造の客家建築が残されているという。広州にはあまり文化財が残されておらず、地球の歩き方の一つ星というのはかなり微妙なところも多いのだけれどもせっかく一人の週末なのでドライバーさんにお願いして行ってみた。


広州から車を走らせること一時間半。なかば未舗装のところもある細い道を辿って行くと、目的の建物があらわれた。


隣りに住んでいる人にドライバーさんが声をかけてくれ、中を見させてもらうことに。さっそく門から中に入る。


中では鶏がお出迎え。まるまるとした立派な鶏達。


今はほとんど廃屋に近く、一軒のみ中でおじいさんと子供が薄暗い中テレビを見ていた。ほかの部屋の中には瓦礫が転がっていたり、鶏が飼われていたり。雨の中しばらく写真を撮っていたら、隣りに住んでいる人が三階建ての自宅の屋上へと案内してくれた。上から見ると馬蹄形の独特の形が良く分かる。なるほど。こうやって外への防御性を高め、一族が肩を寄せあって小さな空間の中で人々は助け合って生きてきたのだろう。中心にある祠堂には麦わらが積まれていた。きっとここでは集会や祭祀が行われてきたのだろうけれど、今はそれを守る人もいなくなってしまったのだろうか。それとも特別な時には奇麗にされてここで何かが執り行われるのか。
伝統を守れというのは簡単だけれども、実際生活している人たちからしたらそれもまた難しかろう。生活のため外に出ることを多くの人が選べば、後は廃墟となるのを待つばかりなのかもしれない。








個人的にはそれなりには楽しんだのだけれども、それは自分の中で在りし日のことに思いを馳せて想像で補填をし続けたからにすぎない。文化財としての価値があるのかといえば保存状態を含めてかなり疑問である。正直なところ、これで一つ星をつけるというのはどうかなと思う。それだけ文化が破壊されてしまった、という証左にはなるかもしれないけれど、人に勧められるかといえばそれは難しいところ。残念ながら。

*1:そのため、華僑になって国外に出ている人も多く、華僑の1/3は客家だそうだ。彼らは強固なネットワークを持ち、お互いに助け合いながら生きているのだ