柿の種中毒治療日記

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約束された場所で underground 2

今日はもともと祝日でもなんでもなかったので、予定通り仕事始め。しばらくメールを見ていなかったので山のようにたまったメールを一通一通処理して行った。途中でフィリピン大統領官邸から今日を祝日にすると言うアナウンスが12月末に出ていたことに気付いたけどまあ乗りかかった船だ。さくさくと終わらせて、読書。
ずいぶん前に同じく村上春樹による『アンダーグラウンド』というサリン事件の被害者たちのインタビュー集を読んだことがあったのだけど、その続編の本書は未読だった。こちらの本は前作とは反対にオウム真理教信者や元信者にたいしてのインタビュー。まだ未消化な部分もあるけれど、読み終わって一番最初の感想はこの本を読んで本当に良かったということ。読みすすめる中でいらだち・怖れ・悲しみなども覚えながらも、深い部分では不思議な充足感。
村上春樹が冒頭で「この本を書いた目的はオウム真理教というものを分析したり断罪したり擁護したりするためのものではなく、読者が『多角的な視座』を作り出すためのマテリアルを提供するものだ」というニュアンスのことを書いているのだけれども、この本を読むにつれそれが実感として分かる。そして彼が『小説家が小説を書くという行為と、彼らが宗教を希求するという行為の中には打ち消すことのできない共通点が存在し、かつ何かしら決定的な相違点も存在する』というとても興味深いことを言っているのだけれど、これも読み進めて行くうちに納得できる。
信者・元信者とのインタビューに加え、インタビューを終えた後で村上春樹河合隼雄との対談している。この構成が良い。インタビュー一つ一つ、そしてそれをふまえた対談がとても示唆に富んでいる。オウムに限らずカルトにはまる人たちは『人より純粋だ』と言われることが多いのだという。だからこそ矛盾だらけで正義というものがどこにあるのかわからない現実とずれを感じ、葛藤が生じる。その葛藤に対する一つの答えとして、そういう矛盾だらけの現実を自分から切り離し、宗教に飛び込んで行く過程がわかりやすく示されている。彼らは決して最初から『理解不能あっち側の人』ではなく、個人個人違った悩みをもちながらも普通に生活していた人なのだ。もちろんちょっと『極端な人』が多いのだけれども。
ところが結局のところ、善悪というものを2つにきれいに切り分けようと言う試みはうまくいかない。現実というのは物事をスパッっと切り分けられるほど薄っぺらいものではないのに、それを独善的で薄っぺらい枠組みに入れてしまってはそれは上手くいかないだろう。そういう薄っぺらい枠組みー小さな箱に飛び込むのはある意味ラクチンなことだ。でもそれでは何の解決にもならない。悩み苦しみながらも、理想とは異なるものを忌避するのではなく、どう折り合いをつけて行くのか。悪というものが善に対する二項対立として存在するのではなく、人間の中に内在するものとしてどう受け入れて行くのか。物事を一面的にとらえず多角的に見るということをいつも忘れちゃ行けないなと思う。
多くの宗教では自分たちが善であることの裏返しとして他者が悪だとする。宗教が紛争の原因であり悪の根源だとまでいう人がいるのはこれが理由だろう。そういうときついつい不寛容な一神教vs寛容な多神教的な枠組みで語られやすい。だけどこれは一神教か多神教かという問題ではないし、そもそも宗教を信じるかどうかという問題でもない気がする。オウム真理教を忌避する人たちの中にも同じ構図があることは忘れちゃあなるまい。『彼らは悪だ』と断じ、われわれ『こっちの側』には理解できない『あっちがわの人』だという対立関係を持ち込んでは結局のところなにも変わらないのだろう。
村上春樹が『悪というのは人間というシステムの切り離せない一部として存在するものだろう』と考え、それを基にした様々な物語を提示して暮れているのはありがたい話だ。彼の物語を通じて、自分自身がそういうものを疑似体験できるのだから。この本にしても読み終わって10分そこら考えただけではとても整理しきれるものではない。再読が必要だな。

約束された場所で―underground 2 (文春文庫)

約束された場所で―underground 2 (文春文庫)


蛇足ながら個人的な課題に還元すると、いかに多様性ということを理解し尊重して行けるのか。八方美人になるのではなく、自分自身の確固たる価値観を持ちながらも柔軟さを保てるのか。難しいけどさ。多様な考え方を許容しようとしても、相手が多様性を拒絶するという場合どう折り合いをつけて行くのかもまた難しいところだね。