柿の種中毒治療日記

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倚りかからず

ここ数日.co.jpのウェブサイトに全くつながらなかった。Yahoo.co.jpだってそうだし、それ以外のサイトもほとんどダメ。どうやらなにか政府による規制があったらしい。それも週明けには解除されたようだけれど、一体何が起こってるんだか。
閑話休題。お風呂の中でぼんやりと詩集を読んでいた。茨木のり子さんの『倚りかからず』。国語の授業で読んだかと思っていたけれど、1999年の詩らしいからそうじゃないってことだ。一体どこで読んだのか。さっぱり思い出せないのだけれど、なぜかこの言葉が印象に残っていていた。
自分の中で同調する部分もありつつ、素直に受け止められない部分もあるのはなぜだろうか?ぼくだって倚りかかりたくない、人に依存したくはないとは思う。自分自身しっかりとしたプリンシプルを持っていたいと思うし、揺るがない・惑わない自分でありたいとも思う。でもそれと同時に、自分の二本足だけで立つなんてやっぱり不可能だとも思う。親になったことで思うのかもしれないし、仕事を通じて多くの信頼できるひとたちと頼り頼られながらやってきたからそう思うのかもしれない*1。もしくはフィリピン・中国で暮らし、日本的な『家』思想とはまたことなる家族を重視し助け合うことを是とする文化に影響されている部分もあるのかもしれない。人生山あり谷あり、二本足で立てない時は人に肩を貸してもらったら良いし、逆に自分に余裕がある時には人に肩を貸せば良い。人生そこまで凛とせずともよいんじゃない?*2
少し調べてみたところ、この詩は天声人語で取り上げられて大ヒットになったらしい。一体どういうところがそこまで多くの人の心に響いたのか。分かるようで、分からない。自立・相互扶助・依存って白黒そこまではっきりつけられるものじゃないよな。尖っていた高校・大学時代には一も二もなく同調していたと思うのに、いまは逆に違和感。それとも自分が60−70と年を重ねて行ったとき、再びそういう気分になるのだろうか。そういう意味では期間をおいてまた読み直してみたい詩集。
なお、『時代おくれ』という他の詩を読んだ違和感からこういう反発を覚えているのかもしれない。作者は『パソコン インターネット みたこともない。それで格別支障もない。そんなに情報集めてどうするの。そんなに急いで何をするの。頭は空っぽのまま』なんて言っているのだけれど、正直年寄りの繰り言にしかみえない。インターネットによって情報の伝達・収集能力が国境を越えて飛躍的に発展したのは事実だし、それ故の進歩だっていくらだってある。インターネットだって中国政府が必死になって情報統制しようとしているのには理由があって、紙媒体でしか情報が入ってこずテレビは全て当局の意のままという時代だったらばまた世界はかなり違ったものとなってたに違いない。
インターネットはやはり世紀の発明足りうると思うし、そのスピードと情報量の中で、情報量に振り回されずいかに本質に迫れるかこそが勝負であって、『民族衣装を着て陽なたくさいどてらの匂いをさせているブータンの子ら』こそが『まっとうに生きていて』『なにがあろうと生き残れる』なんていうのはたんなる世捨て人の世迷い言、もしくは失われてしまったold but good memoriesへの憧憬・未練にしか見えないな、なんて思ってしまう。いや、まあ2012なりなんなり世界の破滅がやって来て手に職がない限り生きて行けない、なんて言うんだったら別だけどさ。


 倚りかからず

 もはや
 できあいの思想には倚りかかりたくない 
 もはや
 できあいの宗教には倚りかかりたくない
 もはや
 できあいの学問には倚りかかりたくない
 もはや
 いかなる権威にも倚りかかりたくない
 ながく生きて
 心底学んだのはそれぐらい
 じぶんの耳目
 じぶんの二本足のみで立っていて
 なに不都合のことやある
 倚りかかるとすれば
 それは
 椅子の背もたれだけ

倚りかからず (ちくま文庫)

倚りかからず (ちくま文庫)

*1:もしくは僕が何事もぎちぎちとRole & Responsibilityを明確としようとする外資系で働いているからその反動として思うだけであって、そういったものが明確に区切られていない会社で働いていたら『倚りかかるな』と声高に言っているのかもしれないけれど

*2:茨木さんはどうやら左翼系の詩人らしいのだけれど、この倚りかからずを曲解すればネオ・リベラリズムの『自己責任』につながったりして。