柿の種中毒治療日記

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『神国日本』を読んだ~神国という概念はどこからやってきたのか

日曜日。ちくま書房の本がAmazonでセール中なので買った本。その名も『神国日本』。かなりドキッとするタイトルの本なのだけれども、中身はイデオロギーの是非についてではない。さまざまな文献をひもとき、どうやって『神国』という概念が生まれ、それがどう移り変わってきたかについてアカデミックに解読した本。ナショナリズムの台頭なんてことが聞かれる昨今だけれども、一部の政治家が使ったりするこの言葉がどこからやってきたのかというのがわかって面白かった。

神国という言葉自体は非常に古くからあり、日本書紀にもすでに見られる。しかし、神国という概念が選民思想や排外的な思想の文脈で使われるようになったのは意外に新しく、江戸時代の国学あたりからなのだ。それまでの神国という概念は、それとはかなり違う。そもそも、平安時代から鎌倉時代にかけての神仏習合期・末法期においての神という概念は、現代の我々が考えるような『神』=『至高の存在』といったものとは全く異なる。当時の神は仏に対して優越するものではなくって、『(世界の中心から)遠く離れた地にある、粟粒(あわつぶ)を散らしたような小国』に仏が神のかたちをとって現れたという位置付けだったようだ(粟散辺地・本地垂迹)。「神」自体が仏に救済される対象だったり、仏を支え守るという位置付けである。なので『神国』というのは特段に優越性を示すものではなかった。そもそも、白村江の戦い元寇などの限られたタイミングを除けば、対外的な脅威にさらされることの少なかった当時、民に広く選民思想を植え付けるだけの特段の理由もなかったのだ。

江戸時代の国学、そして明治政府国家神道廃仏毀釈、戦時中の教育勅語など、国民を束ねる手段としていまのような『神国』=『選ばれた国』という概念になっていったようだ。幕藩体制から明治天皇を頂点とした中央集権体制につくりかえ、列強と伍して帝国主義の道を進めていく上で、この言葉は非常に『使い勝手の良い』国策プロパガンダだったのだろうな。

高校時代に世界史をとったものの日本史はとらなかったのでこのあたりの知識はマンガ日本の歴史程度にとどまっていたのだけれど、いろいろな発見があって興味深い。多国籍企業で働き、いろいろな国で働く中で『宗教と政治の話はするな』というのが体に染み付いているのだけれども、単にノンポリを決め込んで無知でいるよりも、歴史をもっと学んだほうがよさそうだ。高校・大学ともっと日本史の勉強をしておけばよかったなんて思わなくもないけれど、住んだことを悔やんでも仕方ない。これからしばらく日本史やアジア史の本を読んでみようと思う。

神国日本 (ちくま新書)

神国日本 (ちくま新書)