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柿の種中毒治療日記

Kobe→Manila→Guangzhou & Hong Kong→Seoul

無駄なのか、必要な投資なのか、どっちだろう

Japan from outside Life in Manila

昨日をもって終了したはずの仕事だったのだけれども、ほんのちょっとだけ追加作業が発生した。その作業内容はフォーマットの細かい変更。去年すでに体験しているのでこのプロセス自体は別に驚きでもなんでもないし、変更作業自体は10分かからなかったのだけれど、改めて日本で求められる仕事って細かいなあと思う。うちの会社の中では細かいほうだといわれるぼくでさえ思わずため息をついてしまうような細かさだ。
細かさという点はアウトプットの品質の問題なのでそこはまあ理解できるとして、それにまつわるプロセスというのも冗長だ。フォーマットの変更の指示が細かく書き込まれ、実際に変更内容を図示する事さえもしてくれているのだけれど、実際のファイルを変更するのはあくまでこちらの仕事だ。建前上、その書類は会社側が作成提出するものであり、監査という仕事は書類そのものにタッチするべきではないのだけれど、それに対してここまで厳密であることは賛嘆を通り越して慨嘆。ぼくが知るアジアのその他のマーケットではほとんどの場合監査法人が書類作成を代行してたりするので、まわりからは「修正内容の指示にそこまで時間と労力を割くくらいならそちらで変更して確認だけとってくれればよいのに」なんて声も上がる。まわりのフィリピン人たちからは一体何故そこまでこだわって二重で仕事をしなければいけないのか、目をぱちくり。ちょっと脱線して日本では自殺者は年間三万人を超えるというけれど、こういう息の詰まるような細部へのこだわり、結果もともかく決められた煩雑な手続き・過程の遵守・失敗を許容しないなどがちがちのカルチャーというのもそのひとつの理由ではなかろうか。
じゃあフィリピン式の、まあなんだってどうにでもなるやという文化が100%いいかというとそういうわけでもない。たとえば列車の運行スケジュールだったり日本の精密機械ひとつとっても、日本の過剰と思えるまでの正確性や信頼性というのは驚くほどだし、そういうのが保障されている日本というのは快適でいいなあと思う。同時にそういうすばらしいアウトプットが、ホワイトワーカーの残業や冗長なプロセスによって担保されているのかというとそれはそれで怪しいものだ。やるべきところはきっちりやりながら、ここは無駄だからやらないというところをどう線引きしていくのか。もうちょっと肩の力を抜いて大事なところにフォーカスできるのか。それをひとつひとつ見直していけば無駄もなくもっと住みよい国になるのかもしれないな。