柿の種中毒治療日記

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多様性と個性

夜遅くまで働いていた一年目社員と組織が多様性を生かすためにはという話でしばらく盛り上がった。最近自分自身も周囲の人もdiversityということに対してすごく関心が深くなっているのを感じると同時に、いかにそのことに対する本質的な理解が足りなかったかという事にも気付く。ソクラテスは『無知の知』、自分が知らないということを認識することの重要性を語っていたけれど、はっと自分がわかったつもりになっていたのに何も分かっていなかったことに気付くというのは何かに対する理解を深める上で大切だな、と実感。
なんか、自分も含めて多くの人が教科書にでも書いてあって3分間紋切り型に語ればそれで底が尽きてしまうような浅い理解で分かった気になってしまっているのが何より問題なんだよな。そんな程度の理解だからこそ、日々の行動レベルに全くそれが反映されず、ただのお題目に終わってしまっちゃうんだろう。そして、お互いの理解を深めるための、本質的で深い議論が行われないから、結局みんなが考えている事がただてんでバラバラという事になるんじゃないか。この「みんながてんでバラバラ、好き勝手な事を考えている」のは個性/多様性を尊重している事でも何でもないでもないし。一人一人が自分の考えを深めて、そしてその意見を自由に言い合って、そこで見つかる共通点や差異を認識・受け入れてこそ多様性を生かす第一歩になるんだと思う。
そしてもう一つ。組織としてどこに最低限の共通部分を持って、どこから先に多様性を持たすのかというのも明確に定義しなきゃいけなんじゃないか。何でもかんでも違いは個性、多様性だなんて思春期の中学生高校生じゃないんだし、得意なところは伸ばしつつも不得意なところは最低限必要なレベルまでは努力して変えていかなかったら話にならん。不得意な事をそのままにしておくのも多様性の尊重、というわけじゃない。
しつこく細胞組織もしくは免疫系とのアナロジーにむりやり持ち込もう。免疫反応ってつまるところ抗体が自己・非自己を認識する過程だ。細胞分化によって一つ一つの細胞は全く違った個性を持ちながらも、自己同一性は保持しているから自分自身に対して免疫反応が起こる事はなく細胞の集合体としての組織、組織の集合体としての個体がなりたつわけだ。多様性を認めかつ共通の目的なり何なりをいかに持てるかというのが社会組織の方では鍵なんだろうな。*1

*1:もちろん社会組織というのは集まるのも離れるのも自由だから一個体内の細胞多様性とアナロジーが成り立たない事もあるけどね。例えば、社会組織の場合は異分子によるゆらぎが改革を生む事も多いし。あ、でもそれはDNAに入った突然変異がもたらす変化にも似てるな