柿の種中毒治療日記

Kobe→Manila→Guangzhou & Hong Kong→Seoul→Yokohama

さよなら

その日、というのは突然来るものなんだな。昨夜母と電話して祖母の様子を聞いたら回復して元気そうだというから、週末には退院して元気な姿を見れるもんだと思ってた。明日には帰省するし、きっとすぐに会って話をできるだろうなって。
ところが昼過ぎに弟から電話。電話の向こうでずいぶん泣いていて何言ってるのか良くわからない。できるだけ早く帰って来いと言うことだけはわかったのですぐに仕事を切り上げて二人で新神戸へと向かった。新神戸には着いたものの、ちょうどいい新幹線がなくって40分待ちでのぞみに乗った。
新幹線に揺られながら、これまでのことを思い返す。ちょうど一ヶ月前に会った時のこと、今年のお正月に萩の旅館へ親族勢ぞろいで旅行に行ったときのこと、一年前の文化の日に祖父祖母と妹・僕ら夫婦5人で京都旅行をしたときのこと、2年前の神戸旅行に僕たちの結婚式。12年さかのぼって僕の大学の入学式に武道館まで祖父祖母が来てくれたこと。もっともっとさかのぼって、子供のころ母が留守のときに祖父の家の奥の部屋でみんなで飛び馬をして遊ぶ馬になってくれたこと。時には大喧嘩をしたこともあったけど、いつもいつもあったかい目で見守ってくれたな。
新幹線は4時55分に新山口の駅に着いた。お手洗いをすませて、弟に着いたことを連絡した。そこで、弟が声を詰まらせながらついさっき4時23分に祖母が息を引き取ったことを聞かされた。あー、間に合わなかったんだ。と少し涙が出てきたけれど、ここはなんとかこらえた。
そして、タクシーに飛び乗って宇部医大をめざす。その途中で祖父から電話。会いたい会いたいといままでずっと待ってたけれど、ついに間に合わずに死んだぞ、と伝えられて涙が溢れ出した。祖母の病気は間質性肺炎という難病で、死後の献体にサインをしてたらしい。そのための解剖も一刻を争うらしくって、病院に着くまでのあと30分待てるかどうかぎりぎりだって。一度解剖に入ると2時間は会えない。でも、せっかくそういう風に自分の体を役に立ててほしいと思ってた祖母の意思もあるし、間に合わなかった場合はしょうがないからそっちを優先してくださいと伝えた。
でも、不幸中の幸いか、タクシーは奇跡的に時間内に病院にすべりこんだ。病棟9階の病室にかけこんだら、すごく穏やかな顔をしてベッドに横になってた。祖父から手を握ってあげてくれと言われたけれど、手はもう胸の上で組まれてたから、ほっぺたと頭をずっとなでなでしてた。まだほんのりと暖かい。肌のお手入れにはものすごーく時間とお金を使っていたから77歳とは思えないほどシミひとつなくしわもほとんどないすべすべのほっぺただった。
解剖へと運ばれていったあとのベッドはまだ暖かかった。その上に寝そべって、マットレスをなでなでして残る体温を少しでも残したいなと思った。
2時間後に病院の人からそれではこちらへ、といわれて向かった先は霊安室だった。あと5分つくのが遅かったらここで対面だったんだな、と思うと最後の瞬間には間に合わなかったけれどもそれでもまだ病室で会えてよかったなと思った。
それから一時間かけて帰宅。祖父が「家に帰ってきたぞ、ばあちゃん」といって枕元から離れない姿がとても悲しい。枕行をあげ、祖母がずっと寝ていた部屋にみんなで集まってアルバムをめくった。葬儀の写真を探すためだったんだけど、ずっと昔の僕たちの写真や僕らが生まれる前の祖父、祖母や父母の写真なんかがいっぱい出てきてみんなで笑いながら盛り上がった。
結局僕が去年京都旅行の時に撮った写真にしようということになった。笑顔がとても素敵な写真。
さよなら、大好きな人。