柿の種中毒治療日記

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ロング・グッドバイ

いよいよお別れの日。出棺の12時半まで暇さえあれば奥の間に行って一人で棺桶の側に座ってた。なんども棺桶を開けて、ばあちゃんの顔をなでた。すっかり冷たくなってしまっているけど、やっぱりすべすべ。今日この後荼毘に付されてしまったらもう二度とこういう風に触る事はできなくなるんだな。名菓舌鼓というのがあるんだけれど、ちょっとだけ手触りが似ているかも、なんてね。そうやって棺桶の側にずっといたら、叔母がやって来てやっぱり同じようになでてた。それからしばらく祖母がどれだけ僕の事を可愛がってくれて気にかけてくれてたかという話を聞かせてもらった。今度の涙は悲しさ半分、感謝半分。皆に内緒で叔母と一緒にばあちゃんの髪の毛を少し切らせてもらった。
12時半に我が家を出た。イトコたちと棺桶を担いで出棺。大仰な霊柩車ではなくって黒いシックなリムジンだった。家中の戸締まりと火の元を確認して、僕らも後を追った。葬儀場への道のりは僕が高校生の時に毎日帰宅後にマウンテンバイクで走ってた道のりだった。久しぶりに見る風景だ。昨日も雲一つない青空だったんだけど、今日も青空が広がっていてその下に広がる山並み。30分ばかり走って、山の中の会場に到着した。
祭壇は花で一杯に飾られてた。カサブランカのいい匂い。昨日選んだ写真がうまく加工されて、真ん中で微笑んでた。朱色のマフラーは妹が贈ったものでよく似合う。式には200人を超える人が参列してくれた。これだけの人が集まってくれて本当に良かった。祖父の挨拶は本当に心がこもっていた。57年前の出会いに始まり、その後二人三脚で会社を大きくして来た時代にどれだけばあちゃんが支えてくれたのかなど初めて聞く話ばかりだった。祖父は朝4時に起きて挨拶の練習をしていたらしいんだけど、その時の内容とは全く違ったんだって後からイトコから聞いた。きっと練習した型通りの内容ではなく、本当に言いたい事を言ったんだろうな。
その後、柩に花をさらに入れた。相変わらず微笑んで寝ているようだったから、柩を運び出す前に何度も顔を撫でて呼びかけた。祖父が『すぐ行くから待っちょれ』っていうのでみんなで『いやいや、ゆっくり待っといて』と言い換えた。火葬場の扉が閉まって、いよいよ本当にサヨナラだ。待ち時間には羽衣あられをボリボリ食べた。僕たちが子供の頃に父母が留守の夜にいつも面倒を見に来てくれて、その時に必ず持って来てくれた懐かしいお菓子。一時間半待って、みんなでお骨を拾った。もうこれで触れる事もできなければ写真以外で見る事もできないんだな。この3日間、何度も涙が出てきたけど今日は本当に涙が止まらない一日だった。頭痛いや。
この後お寺に行って、遺骨とともに帰宅した。頭痛がひどいのでちょっと横になって、そのあと再びリスト作りで夜中まで。夜、男達が不祝儀の集計をする間、女性たちは形見分け。隣でみんなで冗談を言い合いながらお互いに似合うものを選んでいる様子でなんだか和んだ。相続で骨肉の争いっていうのはよく聞く話だけれど、そんなこと全くない。むしろ骨肉ごっことか冗談を飛ばしながらお互いに笑いあってる。みんなに惜しまれて、子供・孫たちも仲良くって、ばあちゃん幸せだな。
偶然みんなが僕の奥さんに選んでくれたネックレスは祖母がいつもつけていたエメラルドのネックレス。昔々、僕が石の図鑑が大好きだった子供のころ、そのエメラルドに魅入って奇麗だなーと言ってたら、いつかあんたにお嫁さんができたらあげるよ、と言われたことをふと思い出した。まさかこんな形になるとは思っていなかったけど、大事にしなきゃ。