『日本軍と日本兵 米軍報告書は語る』を読了。バンザイ・アタック、つまり特攻玉砕を厭わない精神主義や、時代遅れの銃剣白兵主義は『ファナティック(狂信的)』だと片付けられがちだけれども、日本兵たちは本当に狂信的な集団だったのか。それを米軍の報告書から読解こうとした本。日本側からの回想録も一つの真実ではあろうけれど、敵対していた米軍側からの視点で見てみるという複眼的な思考はなかなか興味深い。
結論としては、日本兵たちは決して死を厭わない狂信的集団だったわけではない。この本には色々な事例が引かれている。日本兵たちが将を失って散り散りになったり、戦意を喪失して脱走したりといった例も挙げられている。また、田舎出身の兵士たちが『皇国のため』という忠誠心を比較的持っていたのに対して、教育レベルの高い都会出身の兵士たちは懐疑的であったなどという話も出てくる。
戦闘に置いても最初から玉砕ありきだった訳ではない。日本軍が局所的な戦闘において失敗から学び、改善していくという合理性を発揮した場面も多々あったという。いくつもの戦術は実際に米軍を苦しめたし、米軍もそれを評価している。
筆者は、人間地雷のような自爆攻撃でさえも資源・機械化兵力に劣る日本軍の選択としては『合理的』な選択だったという。ただし、それは『狭い意味での合理性』に過ぎないとも指摘している。*1。『狭い意味での合理性』というのは言い得て妙である。最近どうなのか良く知らないけれど、しばらく前にはロジカルシンキング・クリティカルシンキングのたぐいが流行っていた。その中では、『非合理的な選択はダメ、合理的思考こそが大切』という風潮があったように思う。しかし、『合理的』ならなんでも良いかというとそれもまた間違いなのだ。ある前提条件でのもとでの『合理性』は、その前提条件のないところでは『狂信的』になりうる。日本軍上層部は戦力に劣るという前提から、『合理的』な選択の結果として自爆攻撃を指示したという解釈もあり得るのだ。*2これは、合理性が『正しさ』を必ずしも意味しないいい例だろう。
そもそも、その『合理性』が何を前提とし、どのレベルの話なのか。これこそが大切だ。大局・戦略レベルで道を誤ってしまうと、戦術レベルでの合理性の追求は無駄でしかない。名著『失敗の本質』にも挙げられていたけれども、グランド・デザインの欠如こそが最大の問題だったのだろう。日本ではとかく現場力なる言葉が出てくる。実際、現場の力というのは大切だと思うけれども、やはりそれはハイレベルでの正しい戦略あってのことだ。
それにしたって、撤退戦というのは難しいものなんだな。一度広げた戦線を総崩れする事なく、被害を最小限にしながら切り抜けるというのは特別難しい。難しい撤退戦に持ち込む前に、どう大きな舵を取るのかというのはビジネスの世界でもとても大切だと自分の最近の苦しみについ重ねてしまった。
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*1:自分が将棋をやっていて、形成がかなり不利になってきたときについつい『突撃』を選ぶのもそれと似ている。その不利な形勢を招かない・乗り切る戦力がないときに、突撃をする事で敵失を誘おうというのは棋力の低いぼくにとってはある意味『合理的』だ。ただ、ほとんどの場合玉砕するけれど
*2:しかしその合理的選択は人道から全く外れたものだし、非難されるしか無い。戦争の話というと、とかくその中の個人をヒロイックに描きがちだ。もちろんそこで犠牲になった人々に対して哀悼の思いはあるけれど、そういった個人レベルでの美談を強調すると、なぜ日本の指導部やマスコミが大局を見誤ったのかというもっと大事なところを見落としてしまう。