柿の種中毒治療日記

Kobe→Manila→Guangzhou & Hong Kong→Seoul→Yokohama

鳥山明さんを思う

鳥山明さんが亡くなったというのが大きなニュースになっていた

ぼくもコミックを買い揃えたっけな。久しぶりに読みたくなって、Kindleでモノクロ版を全巻まとめ買い。1巻を読み始めて笑いが止まらない。どんどん進んでいく。

大人になったからなのか、親になったからなのか、後半どんどん力と力がエスカレートしてバトル中心になり、大勢があっさり殺され、そしてその人たちが「どうせドラゴンボールがあれば再び元通り」という重いんだか軽いんだかわからない調子に佐々木なっていく前の方が楽しく読める

 

 

1Q84

村上春樹さんの小説『1Q84』を聴き終えた。オーディオブックで全6巻の大作。全部で68時間近い。

オーディオブックは倍速ぐらいで聞くことが多いのだけど、小説に限っていえば早くしないほうが世界観にどっぷりと入り込めてよい。今回の朗読は杏さんと柄本時生さん。Amazonのレビューではなかなか辛辣な評価も目立ったけれど、個人的にはこの二人の朗読は最高だったと思う。柄本さんの言葉はちょっと滑舌は悪いけど、味があるし心に染み込んでくる。杏さんの冷静で透明な感じの声も、青豆という人物にぴったり。本で読んで筋だけを追いたくてさっと読み飛ばしてしまっていたようなところも、二人のナレーションでひとことひとことゆっくりと聞いていると、本当に格別の体験だった

1Q84は出版当時に読んだ。最初に1巻2巻が出て、少し間を置いて3巻が出たんだったかな。当時フィリピンで暮らしていたこともあって、3巻を読むのに少し間が空いた。それもあってか過去の日記には『感想は保留』とだけ素っ気なく書いていた。おそらく13年前のぼくには響かなかったのかもしれないし、素直に受け止められなかったのかもしれない。単に1・2巻の内容をあまり覚えておらず、あまり理解できなかったのかもしれない。セックスの描写が露骨なのがちょっとどうかと思ったのかもしれない。主人公の一人である天吾がいったい何をしているのかぴんとこなかったのかもしれない

でも13年ぶりに今度は耳から聴く1Q84は自分の中に深く、深く入ってくるようだった。父親のNHKの集金に連れて行かれるのが嫌で嫌でたまらない天吾。両親が信じる新興宗教『証人会』の活動で家々を訪問する母親の後をついて歩く青豆。そんな二人が小学校の教室での一瞬交わした手と手のつながり。その後、二人はそれぞれ親との関係が断絶する。二人は離ればなれになっても小学校の教室での一瞬の出来事を忘れず、自分自身の人生を歩んでいく。

二人は1Q84なるパラレルワールドに迷いこむ。天吾は何をやってもうまくできる天才的な面を持ちつつも、いまいち執念というかこだわりにかける男だったのだけれども、そこである少女のゴーストライターをつとめ、それが大ヒットになる。そこから今度は真剣に自分自身の物語に向き合うことになる。そこで父親と再び向き合う天吾。

一方青豆はといえば奔放な性生活を送るものの、そこで知り合った友人を失ってしまう。その後ある新興宗教の教祖の殺害に加担し追われる身となるも、自分自身の人生を、主体性を取り戻す青豆。そして青豆は大切なものを見つけ、自暴自棄だった自分ではなく自分が他者を守りたいという愛に気づく。もう一人の登場人物、牛河もとても印象的だった。彼もまた不幸と言ってもいい生い立ち。彼はとても悲しいけれど、家族を失い、弁護士という仕事を失い、最後には命も失う。この3人それぞれに感情移入し、ある場面では涙が止まらなかった。

読後はとても温かく、勇気づけられる気持ち。青豆と天吾二人が手を繋いで向かった世界は、『元いた世界』そのものではないのかもしれない。そういう意味で、これは『行きて、帰りし』物語ではない。これは、『行って、赦し、自分を取り戻し、新しい尊いものを獲得し、そして手に手を取って新しい世界へと踏み出していく』希望のものがたりなんだな。もうちょっというと、自己理解と個人的な成長・変革、幼少期のトラウマの克服、自己受容と内面の平和、そして愛と希望の獲得、創造性とコミットメント。

前回ノルウェイの森を聞いていろいろ深く感じるところがあったけど、1Q84は自分の中のまた違った部分や違った記憶に訴えかける。個人的には、村上春樹さんの数ある名作の中でも最高のものがたりの一つかもしれないな

 

 

ノルウェイの森

最近は次から次へと村上春樹さんの小説の朗読を聴いている。

先週末まで聴いていたのは、妻夫木聡さんが朗読する『ノルウェイの森』。初めて読んだのは大学一年生の時だったかな。

主人公のワタナベが暮らす目白あたりの学生寮のモデルになった『和敬塾』に大学のサークルの友達が暮らしていた。僕自身は主人公のように女遊びをするわけでもなく、精神的に不安定な彼女がいるわけでもなく、15平米もない狭いワンルームマンションと駒場のキャンパスと家庭教師先のお宅と下北沢と渋谷と東中野を巡る毎日だった。そしてサークルを辞め、彼女ができ、バイクを買い、友達ができ、とにかく人並みな大学生活だった。その後中高で一番仲が良かった友人が自ら命を絶ち、ぼく自身にもいろいろ人間関係を巡るトラブルがあってこの本を読めなくなった。その後も村上春樹さんの小説は新しいものが出るたびに読んでいたけれど、この本だけは捨てた。今の妻と出会い、就職をし、たくさんの人と出会い、いろんな国に行き、子どもに恵まれた。

一度は捨てたこの本を2010年に映画化されたタイミングで再び海外の日本書店で見つけてつい手に取って再購入した。けれど結局のところ最初の数ページをぱらぱら読んだだけで、あとはそれ以上進む気にはなれず忙しいまま読まずに本棚の奥のほうにしまい込んだ。いろいろチャレンジングな状況は都度あったけど充実していたし、なぜ好んでこの本を読んで落ち込むリスクを取る必要があるのかわからなかった。そんな本を再び開くのではなく、耳から聴くというのはまた新たな発見だった。

妻夫木さんの抑揚を欠いた淡々とした朗読は最初のうち違和感があった。どうせなら全部『騎士団長殺し』を朗読した高橋一生さんに読んでもらいたいなどと思っていた。けれどなかなかどうして。妻夫木さんの過剰な演技も感情移入もないただただ淡々とした朗読は、ぼく自身の拒否反応を惹き起こすことなくどんどん入ってきて想像力を刺激し、むしろ自分の中の深いところまでその言葉が沁みていった。彼の朗読はとても耳に心地よい。

この話は19や20の主人公をめぐる生と死と性、喪失にまつわる話。村上春樹さんがこの物語を書いたのは1987年で彼自身がまだ30代のころ。いまぼくは主人公の倍以上の年齢になり、執筆当時の著者の年齢を超えた。作中の重要人物のうちで、最も年上のレイコさんの年齢だって超えた。いろいろな場所でいろいろな人に出会い、いろいろな体験をしてきたいま、改めて二十歳の頃に出会った本と再会するのもこれまた不思議な体験でもある。

村上春樹さんがあの有名な『やれやれ』と言う言葉に象徴されるデタッチメントから、『井戸を掘る』コミットメントへと変容し、喪失だけでなく喪失からの回復へよりバランスが移って行ったのと同じように、ぼく自身もコミットメントというものが自分の中の核になりつつある。

妻への、子供たちへの、家族への、職業への、友人たちへの、社会への、そして自分自身へのコミットメント。もうナイーブな二十歳の頃ではないし、人からどう見られるかなんてどうでも良い。自分らしく精いっぱい生きることや誠実に生きることがなによりも大切だと思えるようになった。

二十歳の頃を思い出しつつ、感傷的な気分にもならず。むしろ昔の自分に再び出会い、そのすべての体験を改めて受け入れて自分のコアを確認する感覚。自分を許し、ひとを許し、再び頑張ろうという感覚。この小説にそんなことが明示的に書かれているわけではないのだけど、ごく私的かつメタな体験ができたとても良い二週間でした。

 

 

 

騎士団長殺し

ここしばらく夜の散歩で汗をかくための訓練をしている。そのお供に聴いた『騎士団長殺し』を約2週間かけて聴き終えた。本が出た今から6年近く前に、海外発送してもらって読了した記録があった。でもどうやら発熱中に読んだらしく、当時の日記を読んでもあまり具体的な感想が書いていない。

騎士団長殺し - 柿の種中毒治療日記

今回オーディブル高橋一生さんの朗読する『騎士団長殺し』を聴いたのだけれども、これが素晴らしい体験だった。高橋さんのナレーションがとにかく心地よい。身体と心に深く染み入ってくるような深い声とリズム。普段はオーディオブックは1.5倍から2倍ぐらいの速度で再生することも多いのだけど、それではもったいないので等倍で聴いた。その分時間はかかった。本を読むのに比べても遥かに時間がかかった。でもそれで良かったと思える素晴らしい時間だった。

職業的肖像画家である主人公の『私』は妻から離婚を切り出され、喪失感の中で職を放り出し東北地方を放浪する。そのあと友人の父親である画家雨田具彦の小田原にある家に留守を預かる形で住むことになり、その屋根裏から『騎士団長殺し』という絵を見つける。そこから摩訶不思議な体験が始まる。

山の向かいに住む大金持ちの免色との出会い。夜になるとどこからともなくなる鈴の音に誘われて深い井戸を開き、そこで鈴を拾う。絵の中の騎士団長の形を借りたイデアとの出会い。免色に頼まれて描き始めた秋川まりえの肖像画。免色はとても良い男だけれど、もしかしたら自分の娘かもしれないと思っている秋川まりえに執着している。

そのまりえが行方不明になる。『私』は騎士団長のアドバイスに従って、見舞いに行った雨田具彦の病室で騎士団長を刺し殺し、その結果病室の床に開いた『穴』にはいっていく。そこはこの世ではないところ。『川』を渡り、真っ暗で狭い洞窟を通り抜け、そして再び現実の井戸へと帰ってくる。井戸の底にひとり閉じ込められるが、そこに再び置かれていた鈴をふって助けを待つ。そしてその音に気づいた免色に救われる。秋川まりえも無事に家に戻っていた。警察にも何も話さないまりえは『私』には心を開いて失踪中の出来事を説明し、彼女に何が起きていたのかを知る。

まりえの肖像画は結局未完成のまま、依頼主である免色ではなくモデルとなったまりえ自身に渡った。そして『私』は別れた妻と再び話をし、妻と再び暮らすことになる。その後妻が出産した娘と暮らしはじめる。娘は物理的に、生物学的には自分の子供ではありえないのだけれども、『私』自身はその娘に対して深い愛情を注いでいる。そして再び職業としての肖像画を描き始める。

『私』がその不思議な体験の中で本当にまりえを助けたのか、それともそれらは無関係だったのかもよくわからない。でも少なくともこの体験は『私』自身を救ったのだと思う。そして『肖像画を描く』というしごとは文化的雪かきではなくなり、大切な人を支え日々暮らすための大事な仕事になった。『私』は喪失から再生し、希望と愛情に満たされている。読後感もそんな気持ちになれる素晴らしい物語だった。

こうやってあらすじをかいてみても、正直訳がわからない。雨田具彦に戦時中に起きた出来事。免色の過去。まりえの失踪。放浪中の東北で一夜を共にした痩せた女。スバルフォレスターの男と、それがあらわす『私』自身の中の悪。東北大震災。雨田具彦の家と絵画『騎士団長殺し』の消失。8ヶ月の間親しく過ごした免色とは次第に交流がなくなり、そしてまりえも子どものころの出来事を少しずつ忘れ、少しずつ大人になっていく。

そんなふうにもっと色々なエピソードが複雑に絡み合い、もっと色々なおもいが溢れ、ここではとても全て書けない。先日『猫を棄てる 父親について語るとき』を聴いたのだけれども、その村上春樹自身の経験を知ったことで、雨田具彦のエピソードがらさらに違った意味をもっていたんだなという気づきがある。いつか自分がこの日記を読み返してわけがわからないと思ったら、ぜひもう一度読んでほしい。たぶんその時までぼく自身また色々な経験をして歳をとり、そしてまた違った感想を持つのだろうな

 

 

 

 

パン屋再襲撃

1986年初版のパン屋再襲撃がAudibleに入っていたので聴き終えた。

昔々読んだ記憶が呼び覚まされる。タイトルの「パン屋再襲撃」、「象の消滅」、「ファミリー・アフェア」、「ローマ帝国の崩壊・一八八一年のインディアン蜂起・
ヒットラーポーランド侵入・そして強風世界」、「双子と沈んだ大陸」、「ねじまき鳥と火曜日の女たち」。

このあとで長編小説の元になったストーリーやモチーフもあり、これらの短編がその萌芽となったんだなと思いながら耳を傾けた。

まだまだ荒削りな文体や、ちょっと気取った言葉遣いなど、著者の村上春樹さん自身の若さを感じて興味深かった。自分の父親ぐらいの年齢なので、自分の父親の世代の人たちの青年時代の1980年代を追体験する気持ち。今からもう40年近く前の情景が古びた感じがしないのはその分自分が歳をとっただけなのかな。

柳楽優弥さんの朗読は必ずしも個人的には好みというわけではなかった。先日聞いた中井貴一さんや向井理さんのような、もっと抑揚を抑えた淡々とした朗読のほうが好みだな。でも聴いているうちに、村上さんの若い頃のカッコつけた雰囲気や少し軽めな感じなどの『若さ』が感じられて良い朗読でした。

 

 

 

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

10年前に少し長いお休みに広州から香港に旅行に行き、銅鑼湾そごうの書店で発売まもないこの本を買った。香港のコンラッドに滞在中に一気に読み終えて、日記にはその旨だけ書いていた。ところが全く話を覚えていない。また読みたいとは書いていても、それ以外の感想を全く書いてないので当時本当のところ何を感じたのかもわからない。

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年 - 柿の種中毒治療日記

Audibleで朗読されたものがあったので毎晩夜の散歩の際に少しずつ聴いた。向井理さんの抑制の効いた、そしてほっとするとても穏やかな朗読がとても心地よい。肝心のストーリーのほうも、多崎つくるくんが自分の人生の転機となった出来事をめぐって『巡礼』をしていき展開が面白い。でも最後は個人的にはしっくりこなかった。

 

20やそこらの時に仲の良い友達グループから突然追放されて、それを30過ぎまでひきずっているつくる。それをガールフレンドの沙羅に指摘されて、彼はその当時の友人と会い、その当時何が起こったのかひとつひとつ理解していく。彼は自分だけが被害者だと思っていたけれども、必ずしもそういうわけじゃなかったということに気づく。十数年経ってもう一度その時の友人と再開し、お互いに理解し合い、そしてまた再び関係を結べるきっかけができた多崎つくる。これってとてもラッキーだし、幸せなことだと思う。多くの場合失われたものは失われたもので、二度とは戻ってこないものだし。

と同時に沙羅が自分とは別の中年の男と交際しているのではということを知ったつくるは、それを知ったことを沙羅に告げ、それでも沙羅と交際したいことをつげ、沙羅からの3日後の返事を待っている。『自分が沙羅に別の恋人がいるかもということを知っているということは言ってはダメだ』、『沙羅さんをどうしても手に入れなさい』と旧友のエリに言われたのにそれでもそれをさらに告げずにはいられなかったつくる。

沙羅に良い返事をもらえなかったらそれは物理的にか比喩的にはともかく『死』を意味すると彼女からの返事を待つ真夜中につくるは考えている。彼は辛い思いをした、それはかわいそうだ。でもなぜそんなに自分の存在と自分の価値を他者からの承認に委ねようとするのだろう?沙羅がどのような返事をしようと、そのこと自体で自分自身のありようは変わらないじゃないか。ずっと自分が「色彩を持たない」とコンプレックスを抱き続け、沙羅に言われて旧友と再会した『巡礼のたび』でそこに気づきがあったんじゃなかったのか?

彼は巡礼のたびを終えてきてなお、自分の殻からは抜け出していないし主体性を取り戻してもいない気がする。被害者意識からは抜け出せても、それでも幼児性と自己愛からはぬけてないのではないだろうか。乱暴な言葉でいうと、拗らせすぎじゃない?

10年前は多崎つくるとほぼ同年代だったけれど、10年経った今は当然多崎つくるくんよりもひとまわり年上になった。ただ単に自分が年をとり、いろいろ経験してきただけなのかもしれない。いや、そうではなくて人の価値観というのはそうやすやすとは変わらないのかもしれない。こうやって色々書いていて、10年前の気持ちが徐々に蘇る。当時もぼくは多崎つくるのラストの独白にあまりしっくりこなかった。「夜の霧」を読み、どんなに物理的な制限や理不尽な迫害・生命の危機に瀕しても、自ら主体的でありたいと思うようになったのは自分にとって大きな転換点だった。

夜と霧 - 柿の種中毒治療日記

でも、つくるのそういう気持ちは、それはそれで多くの人に共感を呼ぶものなのかもしれない。ぼくには理解できなくても、だからと言って誰が正しいとか正しくないという話ではないし、そういう人もいるんだと受けとめられるようにいたいな。

 

 

 

 

街とその不確かな壁

なかなか読み進められなかった村上春樹さんの『街とその不確かな壁』をまとまった時間をとって一気に読了。

『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』と似た世界から始まって、いろいろ既視感があったのだけど、第二部に移って全く違う物語として楽しめた。

読み終わったのが夜中だったので、なんとなく自分が失ってしまったものを思い出す寂寥感。でも反対に、そしてそれ以上に、主人公が再び現実に戻ってきて、失ったものへの執着に対してひとつの決着をつけ、過去ではなく今この瞬間瞬間に向き合っていく。ささやかだけど誠実な人生が始まるんだろうなという前向きでポジティブな予感もする。

これは一つの『行きて帰りし物語』なんだろうな。欲を言えば、帰ってきたら『その後』がどうなっていくのかも読みたかったけど、それは自分の中で膨らませていけということかな?心に染みる物語でした。