柿の種中毒治療日記

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騎士団長殺し

ここしばらく夜の散歩で汗をかくための訓練をしている。そのお供に聴いた『騎士団長殺し』を約2週間かけて聴き終えた。本が出た今から6年近く前に、海外発送してもらって読了した記録があった。でもどうやら発熱中に読んだらしく、当時の日記を読んでもあまり具体的な感想が書いていない。

騎士団長殺し - 柿の種中毒治療日記

今回オーディブル高橋一生さんの朗読する『騎士団長殺し』を聴いたのだけれども、これが素晴らしい体験だった。高橋さんのナレーションがとにかく心地よい。身体と心に深く染み入ってくるような深い声とリズム。普段はオーディオブックは1.5倍から2倍ぐらいの速度で再生することも多いのだけど、それではもったいないので等倍で聴いた。その分時間はかかった。本を読むのに比べても遥かに時間がかかった。でもそれで良かったと思える素晴らしい時間だった。

職業的肖像画家である主人公の『私』は妻から離婚を切り出され、喪失感の中で職を放り出し東北地方を放浪する。そのあと友人の父親である画家雨田具彦の小田原にある家に留守を預かる形で住むことになり、その屋根裏から『騎士団長殺し』という絵を見つける。そこから摩訶不思議な体験が始まる。

山の向かいに住む大金持ちの免色との出会い。夜になるとどこからともなくなる鈴の音に誘われて深い井戸を開き、そこで鈴を拾う。絵の中の騎士団長の形を借りたイデアとの出会い。免色に頼まれて描き始めた秋川まりえの肖像画。免色はとても良い男だけれど、もしかしたら自分の娘かもしれないと思っている秋川まりえに執着している。

そのまりえが行方不明になる。『私』は騎士団長のアドバイスに従って、見舞いに行った雨田具彦の病室で騎士団長を刺し殺し、その結果病室の床に開いた『穴』にはいっていく。そこはこの世ではないところ。『川』を渡り、真っ暗で狭い洞窟を通り抜け、そして再び現実の井戸へと帰ってくる。井戸の底にひとり閉じ込められるが、そこに再び置かれていた鈴をふって助けを待つ。そしてその音に気づいた免色に救われる。秋川まりえも無事に家に戻っていた。警察にも何も話さないまりえは『私』には心を開いて失踪中の出来事を説明し、彼女に何が起きていたのかを知る。

まりえの肖像画は結局未完成のまま、依頼主である免色ではなくモデルとなったまりえ自身に渡った。そして『私』は別れた妻と再び話をし、妻と再び暮らすことになる。その後妻が出産した娘と暮らしはじめる。娘は物理的に、生物学的には自分の子供ではありえないのだけれども、『私』自身はその娘に対して深い愛情を注いでいる。そして再び職業としての肖像画を描き始める。

『私』がその不思議な体験の中で本当にまりえを助けたのか、それともそれらは無関係だったのかもよくわからない。でも少なくともこの体験は『私』自身を救ったのだと思う。そして『肖像画を描く』というしごとは文化的雪かきではなくなり、大切な人を支え日々暮らすための大事な仕事になった。『私』は喪失から再生し、希望と愛情に満たされている。読後感もそんな気持ちになれる素晴らしい物語だった。

こうやってあらすじをかいてみても、正直訳がわからない。雨田具彦に戦時中に起きた出来事。免色の過去。まりえの失踪。放浪中の東北で一夜を共にした痩せた女。スバルフォレスターの男と、それがあらわす『私』自身の中の悪。東北大震災。雨田具彦の家と絵画『騎士団長殺し』の消失。8ヶ月の間親しく過ごした免色とは次第に交流がなくなり、そしてまりえも子どものころの出来事を少しずつ忘れ、少しずつ大人になっていく。

そんなふうにもっと色々なエピソードが複雑に絡み合い、もっと色々なおもいが溢れ、ここではとても全て書けない。先日『猫を棄てる 父親について語るとき』を聴いたのだけれども、その村上春樹自身の経験を知ったことで、雨田具彦のエピソードがらさらに違った意味をもっていたんだなという気づきがある。いつか自分がこの日記を読み返してわけがわからないと思ったら、ぜひもう一度読んでほしい。たぶんその時までぼく自身また色々な経験をして歳をとり、そしてまた違った感想を持つのだろうな

 

 

 

 

パン屋再襲撃

1986年初版のパン屋再襲撃がAudibleに入っていたので聴き終えた。

昔々読んだ記憶が呼び覚まされる。タイトルの「パン屋再襲撃」、「象の消滅」、「ファミリー・アフェア」、「ローマ帝国の崩壊・一八八一年のインディアン蜂起・
ヒットラーポーランド侵入・そして強風世界」、「双子と沈んだ大陸」、「ねじまき鳥と火曜日の女たち」。

このあとで長編小説の元になったストーリーやモチーフもあり、これらの短編がその萌芽となったんだなと思いながら耳を傾けた。

まだまだ荒削りな文体や、ちょっと気取った言葉遣いなど、著者の村上春樹さん自身の若さを感じて興味深かった。自分の父親ぐらいの年齢なので、自分の父親の世代の人たちの青年時代の1980年代を追体験する気持ち。今からもう40年近く前の情景が古びた感じがしないのはその分自分が歳をとっただけなのかな。

柳楽優弥さんの朗読は必ずしも個人的には好みというわけではなかった。先日聞いた中井貴一さんや向井理さんのような、もっと抑揚を抑えた淡々とした朗読のほうが好みだな。でも聴いているうちに、村上さんの若い頃のカッコつけた雰囲気や少し軽めな感じなどの『若さ』が感じられて良い朗読でした。

 

 

 

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年

10年前に少し長いお休みに広州から香港に旅行に行き、銅鑼湾そごうの書店で発売まもないこの本を買った。香港のコンラッドに滞在中に一気に読み終えて、日記にはその旨だけ書いていた。ところが全く話を覚えていない。また読みたいとは書いていても、それ以外の感想を全く書いてないので当時本当のところ何を感じたのかもわからない。

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年 - 柿の種中毒治療日記

Audibleで朗読されたものがあったので毎晩夜の散歩の際に少しずつ聴いた。向井理さんの抑制の効いた、そしてほっとするとても穏やかな朗読がとても心地よい。肝心のストーリーのほうも、多崎つくるくんが自分の人生の転機となった出来事をめぐって『巡礼』をしていき展開が面白い。でも最後は個人的にはしっくりこなかった。

 

20やそこらの時に仲の良い友達グループから突然追放されて、それを30過ぎまでひきずっているつくる。それをガールフレンドの沙羅に指摘されて、彼はその当時の友人と会い、その当時何が起こったのかひとつひとつ理解していく。彼は自分だけが被害者だと思っていたけれども、必ずしもそういうわけじゃなかったということに気づく。十数年経ってもう一度その時の友人と再開し、お互いに理解し合い、そしてまた再び関係を結べるきっかけができた多崎つくる。これってとてもラッキーだし、幸せなことだと思う。多くの場合失われたものは失われたもので、二度とは戻ってこないものだし。

と同時に沙羅が自分とは別の中年の男と交際しているのではということを知ったつくるは、それを知ったことを沙羅に告げ、それでも沙羅と交際したいことをつげ、沙羅からの3日後の返事を待っている。『自分が沙羅に別の恋人がいるかもということを知っているということは言ってはダメだ』、『沙羅さんをどうしても手に入れなさい』と旧友のエリに言われたのにそれでもそれをさらに告げずにはいられなかったつくる。

沙羅に良い返事をもらえなかったらそれは物理的にか比喩的にはともかく『死』を意味すると彼女からの返事を待つ真夜中につくるは考えている。彼は辛い思いをした、それはかわいそうだ。でもなぜそんなに自分の存在と自分の価値を他者からの承認に委ねようとするのだろう?沙羅がどのような返事をしようと、そのこと自体で自分自身のありようは変わらないじゃないか。ずっと自分が「色彩を持たない」とコンプレックスを抱き続け、沙羅に言われて旧友と再会した『巡礼のたび』でそこに気づきがあったんじゃなかったのか?

彼は巡礼のたびを終えてきてなお、自分の殻からは抜け出していないし主体性を取り戻してもいない気がする。被害者意識からは抜け出せても、それでも幼児性と自己愛からはぬけてないのではないだろうか。乱暴な言葉でいうと、拗らせすぎじゃない?

10年前は多崎つくるとほぼ同年代だったけれど、10年経った今は当然多崎つくるくんよりもひとまわり年上になった。ただ単に自分が年をとり、いろいろ経験してきただけなのかもしれない。いや、そうではなくて人の価値観というのはそうやすやすとは変わらないのかもしれない。こうやって色々書いていて、10年前の気持ちが徐々に蘇る。当時もぼくは多崎つくるのラストの独白にあまりしっくりこなかった。「夜の霧」を読み、どんなに物理的な制限や理不尽な迫害・生命の危機に瀕しても、自ら主体的でありたいと思うようになったのは自分にとって大きな転換点だった。

夜と霧 - 柿の種中毒治療日記

でも、つくるのそういう気持ちは、それはそれで多くの人に共感を呼ぶものなのかもしれない。ぼくには理解できなくても、だからと言って誰が正しいとか正しくないという話ではないし、そういう人もいるんだと受けとめられるようにいたいな。

 

 

 

 

街とその不確かな壁

なかなか読み進められなかった村上春樹さんの『街とその不確かな壁』をまとまった時間をとって一気に読了。

『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』と似た世界から始まって、いろいろ既視感があったのだけど、第二部に移って全く違う物語として楽しめた。

読み終わったのが夜中だったので、なんとなく自分が失ってしまったものを思い出す寂寥感。でも反対に、そしてそれ以上に、主人公が再び現実に戻ってきて、失ったものへの執着に対してひとつの決着をつけ、過去ではなく今この瞬間瞬間に向き合っていく。ささやかだけど誠実な人生が始まるんだろうなという前向きでポジティブな予感もする。

これは一つの『行きて帰りし物語』なんだろうな。欲を言えば、帰ってきたら『その後』がどうなっていくのかも読みたかったけど、それは自分の中で膨らませていけということかな?心に染みる物語でした。

 

 

マイ・エレメント

朝一でディズニー・ピクサーのマイ・エレメントを息子と2人で見に行ってきました。

風、土、水、火の四つの元素が暮らす世界。彼らは一つの大都市に集まっているけれど、周りを燃やしてしまう火のエレメントは他の元素たちから疎外され、一つの地域に身を寄せ合って暮らしている。ちょうどジャパニーズタウンやコリアンタウン、チャイナタウン、インドタウンのように。人種の坩堝ならぬ人種のサラダボウルという言葉があったけど、それを四つの元素に仮託した感じ。

移民として貧困からなんとかローカルビジネスを立ち上げた火のエレメントの親を持つエンバーと、裕福な家庭の息子で人は抜群に良いけれどなんとなく頼らない水のエレメントのウエィドが衝突し、お互いの価値観に触れ、恋に落ち、協力して困難を乗りこえる。そしてエンバーは『移民の子として父親のお店を自分の義務として継ぐべし』という呪縛からみずからを解き放つ。

全く予備知識なしで行ったのだけど、面白い。ディズニーは昔、ヒロインがステロタイプだとか美男美女しかでてこないとか白人しか出てこないとか色々批判されてた気がするけど、近年の作品は色々な国の文化や多様な価値観をできるだけ取り込もうと努力している気がするね。これはこれで批判しようと思えばいくらでも批判できるところはあるんだろうけれど、そういった批判を受け止めて作品作りに真摯に反映しているところはすごいなと思う

 

 

 

猫を棄てる 父親について語るとき

 

終戦記念日ですね。終戦から78年、ぼくの親は戦後生まれだし、もちろん自分が戦争を体験した世代ではない。でもこの日にはいつも何か感慨深いものがある。

Audibleで本当にたまたま目に止まった村上春樹さんの『猫を棄てる 父親について語るとき』を聞いたところ、この話は先の大戦とも関わるものだった。偶然。

最初父親と一緒に猫を夙川の海岸に捨てに行ったけど、家に帰ってみたらその猫がいたという不思議なくだりを聞いて、3年間を過ごした神戸の街や夙川あたりの光景を久しぶりに思い出して懐かしい気持ちになった。夙川や神戸にぼくが行ったことだって、言ってみれば偶然。

でもこの話は夙川での彼の話ではなく、亡くなられたお父さんの従軍の記録などをあたって父親の歴史と向き合っていく話。父親が従軍して向かった先は中国大陸。真珠湾攻撃の前に除隊となり、その後の招集もたまたま国内勤務だった。一方元々父親が属していた第16師団はその後フィリピンレイテ島で師団13000人がほぼ全滅する。

そういったいろいろな偶然が積み重なって、その結果村上春樹という人がこの世に生を受け、そしてさまざまな物語を語るようになったというのはなんだか感慨深い。このお父さんから聞いた話があって、ねじまき鳥クロニクルノモンハン事件の話に繋がっていったのだろうか?逆に言えばあの戦争で命を落とした無数の人たちが『もし』生きていたら有り得たかもしれないさまざまな人生やその子孫の物語はそこで途絶えてしまったという重さ。

ぼくの亡くなった祖父が徴兵されてトラック諸島にいたとか、祖母が産まれたのが今の北朝鮮の元山で、命からがら37度線を越えて逃げてきたとか、色々な話を子供時代に聞いたのでなんとなく自分の中の恐怖体験としてつながっていたのだけれど、ぼくもまたそういった偶然と幸運によって命を受け継いだんだな。

 

 

https://www.audible.co.jp/pd/B0C3LZNVY8

 

 

ケリー・スターレット式 「座りすぎ」ケア完全マニュアル 姿勢・バイオメカニクス・メンテナンスで健康を守る

先日息子の友人宅を訪問した時にお勧めされた本を読了。素晴らしい本。

去年からロルフィングにいってかなり姿勢が良くなり頭痛なども減ったのだけど、残念ながらまだぎっくり腰からは逃れられていない。ロルフィングでも鍼でも共通して言われるのは『座りすぎ』とのこと

『座りすぎ』というのがどう腰に悪いのかピンとこないところもあったのだけど、この本を読んでいてようやくしっくり理解できた。

前半の理論編と写真を見ることで、『良い姿勢』や『正しい立ち方』、『正しい歩き方』などに対する理解とイメージが深まる。座っている間臀筋が弛緩し、その一方で大腰筋や股関節屈筋が短縮した状態が長時間続くことで柔軟性が失われる。この状態で立ち上がると、太もも前側から背骨前側に大腰筋が引っ張る力が働くために腰椎が前に引っ張られ、お尻は後ろに出て腰は反った状態になる。これにより脊椎起立筋や腰方形筋などが硬直する。長時間座って仕事をすることで反り腰→腰痛へとつながる機序がようやく納得できた。このように腰痛というのは座り方や悪い姿勢の結果である。ケアとして大事だのは腰だけでなくむしろ臀筋や大腰筋、足の筋肉や、そもそもの姿勢。

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中盤はスタンディングデスクの導入。後半は全14回の全身のリリースプログラム実践編。理論的なことを理解して、丁寧に二日かけてやっていったところ、一つ一つ終わるごとに体の動きが変わるのがわかる。これまでいろいろ指導を受けたりボディワークをしてきた体性感覚がひとつひとつ繋がっていく。ロルフィングの10シリーズがなぜ足裏や膝下の筋肉からスタートして全身の筋肉にステップバイステップで丁寧にアプローチするのか理屈としても納得できた

本当にいい本を紹介してもらった。夏休みの体の手入れに一過性の試みに留まらず、毎日の立ち方歩き方やメンテナンス、週末はゆっくり体を労るなど習慣化したい。